中林 久徳さん
大阪音楽大学 声楽科卒業
同専攻科修了
2004年、北陸学園卒業(1期生)。テノール歌手。2012年にニューヨークへ渡る。2014年からイタリアミラノでV.Terranova先生に師事し、2016年に『セビリアの理髪師』伯爵役でオペラデビュー。今年、活動拠点を福井に移し、国嶋清平商店の19代目を承継。
生まれは福井ですが、小学6年生まで大阪にいました。両親が福井出身ということもあり、小学校を卒業後、福井に移って北陸中学に入ることになったんです。ずっと大阪で中学受験するものだと思っていたので、大きな人生の転機でしたね。大阪と違って福井は電車の本数が少なく、自転車で行ける範囲しか動けない。住む環境ががらりと変わったし、関西の人ってけっこうぐいぐいコミュニケーションをとってくるんですけど、福井の人はそんなに外に対して強くこないので、いろいろ戸惑いがありました。
僕らは1期生で、学校も僕らもいろいろ手探りだった気がします。僕は大阪で塾に通っていたので、同級生よりも勉強が進んでるという変な自信があって、中学ではあまり勉強しませんでした。それで、入学したときは一番の成績だったのが、中学を卒業するときは下から数えた方が早いくらいになってて(苦笑)。まさかそれが今、海外で活動するようになっているなんて思いもしませんでしたね。
語学研修に対しては期待とワクワク感が大きかったです。1期生は行き先がオーストラリアで、僕にとっては初めての海外でした。性格もあるのでしょうが、ホームステイ先の家族に対して、ものおじしたり、びびったりとかはなかったですね。おかげでそれ以来ずっと海外に対する苦手意識を持たずにいられています。語学研修をはじめとする英語教育に力を入れた北陸中学の学びは、素晴らしいカリキュラムじゃないでしょうか。
ホームステイ先には同世代の兄弟がいて、おもしろかったですね。お腹が空いたときにホストファミリーが作ってくれたサンドイッチが、ツナかと思ったらイルカだったんです(笑)。おいしかったですけど、それがすごい衝撃で今も覚えています。
小学校まで大阪にいて、僕の知る福井は同級生の31人からスタートしていて、本当にこの小さな世界しか知らなかったんですね。なので高校では、新しく出会う人たちと人間関係を築きたいという思いが強かったです。
高校では、演劇部に入りました。子どものときから漫才がしたくて、大阪時代の大親友のひとりと「いつか漫才をやろう」ってずっと言っていたので、入部届けには「吉本新喜劇に入るために演劇部に入りたいです」って書きました。舞台に対する思いが強かったので、演劇部の活動は力を入れていましたね。
北陸高校の演劇部は結構活動が盛んでした。いろんなラッキーも重なって地元枠で全国大会に出させてもらう機会があり、その時の作品のベースになる脚本を手がけました。「大阪から福井へ転校してきたひとりの男の子が、プライドが邪魔して素直になれず周りと打ち解けられない」という、自分を投影したもので、コミュニケーションをテーマに描いたものでした。全国を勝ち上がったところと比べて自分たちのレベルの低さを痛感したけど、脚本は審査員の方から好評を得ることができて嬉しかったですね。
高校2年生のときに北陸・中部地区から各校1名が参加できるミュージカルのワークショップに参加したときの体験がきっかけです。3〜4日間で、みんなで即興ありき、題材ありきでミュージカルを作るんですが、そこから劇団四季への入団を目指して歌を意識するようになりました。ピアノを教えていた母親に相談し、福井で声楽を教えている先生のもとへ通うようになったんです。オペラもそうなんですけど、ミュージカルって歌って踊って演技してという総合芸術なんですよ。親には最初反対されたけど、歌うことがすごく楽しかったですね。
そうですね。演劇の方面からも大学の推薦のお話をいただいていたんですけど、そのときはもう音楽大学に行くって決めていました。同級生のなかではちょっと特殊な進路でしたが、中高一貫教育だったので、先生が勉強も含めて僕のことをよくわかってくれていて、今思うとすごい安心感がありました。
大学では、田原祥一郎先生、小餅谷哲男先生に師事しました。そこで自分の声質がミュージカルよりオペラに向いているとわかりました。
大学在籍時から、早い段階で大阪フィルハーモニーのエキストラ団員として稽古することが多かったです。男性が少ないので、大学の先輩がやってる仕事がまわってきたりするんですよ。主要なキャストではありませんが、舞台経験の場数は踏めました。
大学院では論文などの座学が増えるんですが、専攻科は本当に歌をメインにできるのでそこに進みました。卒業後は、オペラ団体の研修所に入る人や、音楽をやめてしまう人などいろいろですが、僕は専攻科の修了と同時にフリーランスでステージに出させてもらっていました。当時から海外に行きたかったので、お金を貯めないという思いがありアルバイトもしていました。卒業してからニューヨークに渡るまで、結果2年間くらいフリーランスで活動していましたね。
ニューヨークに留学していた大学の先輩が日本に帰ってきたとき、先輩のいろんな話を聞き、僕もすぐに行きたい!という気持ちがさらに強くなりました。で、ちょうど先輩が『RENT』というミュージカルに出演するので、僕も勉強を兼ねて1週間ニューヨークに行きました。
当時は同時多発テロから2年後くらいの時期ですが、本場のミュージカルを観て、僕には街が輝いて見えました。すごい衝撃を受け、「この街に住みたい」と思い、2012年に本格的に渡米したんです。
紹介を受けた先生のところへレッスンと、語学学校に通っていました。そこでできた現地の友人とは今も親しくしています。本当は大学院を目指していたんですけど入学費が高いのであきらめて、ジュリアード音楽学院のイブニングクラスに通っていました。僕が行ったときは、まだ円高だったのでラッキーだったんです。それで円高の終わりと共に、アメリカでの生活をやめました。ニューヨークにいたのは、だいたい1年半位ですね。
音大時代に受けたイタリアのコンクールの関係者と、ニューヨークで仕事をご一緒する機会があり、「誰か良い先生いませんか?」って紹介してもらったのが、ミラノで活躍されていたM.Graziani先生だったんです。それで、ニューヨークからまず1ヶ月間イタリアへ行きました。
普段イタリア語の歌を唄っているとはいえ、イタリア語は全くわからない状態の中で、英語を覚えたときの感覚で生活に必要な言葉を覚えていきました。それでその先生のもとで学ぼうと決意をして、イタリア留学を決めました。
それから2014年にビザを取得し、ミラノに行ったのですが、到着から2週間後にその先生が心筋梗塞で亡くなってしまったんです。良い先生がお亡くなりになったこともショックだったし、予定していたことが全部白紙になって、すべてのツテを失ってしまった。その半年位は、何もする気になれなかったですね。
別の先生を紹介してもらいました。現在もその先生のもとで勉強しています。そこでオーディションに合格し、2016年6月にイタリアのピアチェンツァで開かれた野外オペラ『セビリアの理髪師』の伯爵役でオペラデビューしました。お城だった場所で開かれたフェスティバルでの野外オペラで、新聞にも掲載されました。いつか必ずやりたかった役で、オペラに出演できたのがうれしかったですね。
いや、向こうは今、中国人や韓国人とかアジア人ばっかりなんですよ。その後、ミラノのTeatro Littaで『フィガロの結婚』のバジリオ、クルツィオ役、『愛の妙薬』の ネモリーノ役、ピアチェンツァで『椿姫』のガストン役、『ランメルモールのルチア』のノルマンノ、アルトゥーロ役などで出演しました。2018年にブッセートのヴェルディ歌劇場でやった『蝶々夫人』のゴロー役は、特に好評でした。
歌を始めてから今まで、心から満足したことはないですね。常に、悔しさと共にある。逆に言ったら、満足してしまったらダメだと僕は思っています。どんなに調子が悪いときでもプロとして60〜70点の演奏ができるのは大事ですが、そこで合格点をつけて満足してしまったら成長もない。僕は、子どものときから器用貧乏でなんでもできてしまう方だったんですが、そんななかで歌はなんにもうまくいかないっていうのが悔しくて、それが今まで続けていられている原動力じゃないかなって思っています。
今年から、活動の拠点をミラノから福井に移します。実家は永正17(1520)年創業の来年500周年を迎える味噌・麹屋で、僕で19代目になります。音楽活動を続けながら、これまで世界を見て学んだ知識やつながった人脈がビジネスにも生きて、自分にしかできないことができるんじゃないかと思っています。
そうですね、でも、自分の目で世界を見てきて、日本を出たことのない人にはわからないところを肌で感じてきました。つながってきた周りの人たちも個人でビジネスをしている人が多く、普通とは違う武器を持って挑むことができると思います。やっぱり、人と人とのつながりが一番強いと思うので、それがビジネスの上でもきっと生きてくるはず。自分が楽しめることがどれだけできるのか、挑戦してみたいです。
これからの社会は、どんどんインターナショナルになっていきます。僕は少なくともアメリカに行って可能性が大きく広がり、人生が変わりました。自分が好きなものや楽しいことを原動力に生きてきたなかで、人と人とのつながりがやっぱり一番強いなと思います。だから、勉強ができない、英語ができないってことは、本当に気にしないでほしい。
英語は大事だけど、完璧である必要はない。僕はずっと英語で赤点を取り続けた人間ですが、人との出会いで変わっていけたので、恐れずにどんどんチャレンジしてほしいですね。